2011年09月04日

修理前/修理後

妙福寺本堂のコピー.jpg妙福寺本堂入母屋屋根のコピー.jpg妙福寺破風のコピー.jpg










長徳山・妙福寺本堂

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2008年06月29日

只今修理中

DSCN5593コピー.JPG     妙福寺破風-0.JPG
只今妙福寺本堂の屋根葺き替え修理中です。
永年の懸案だった本堂の修理がやっと実現し、昨年今年と二年がかりで工事を行っています。


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2008年06月12日

どっこい斜蔵

DSCN2287コピー.JPG

 最近の新聞記事によれば、ピサの斜塔を200年前の傾きに戻し、少なくとも300年以上倒れないとのことなので今後も世界の観光名所であり続けるらしい。
それはそれで目出度いことではあるが、ナニ我が早川町にだって「地盤ごと傾いてる土蔵」があるぞ!!ってなもんです。勝手に名付けた「どっこい斜蔵」。
知る限りでも四半世紀はずっとこの状態を保っているのであるから、県や町の名勝指定があってしかるべし・・・・・・・・(アチラさんは築965年高さ55m8層の石造物、地震さえ無けりゃ放っといたって残るわね。)・・・・・・こちとら300年後はたぶんありえない。しかし日本の自然環境は建物に対して過酷であり、人間の意思と力が働かないと残せない宿命にあることを思いつつ「どっこい斜蔵」の健気な立ち姿に拍手を送ろうではありませんか。

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2008年01月17日

集落の風景・百年を経て

100年前と現在の集落.JPG
 大正初年の写真に注目! 電柱電線がありません。なので現代の写真からも電線電柱を消して風景百年の差を比べてみました。

赤沢に電気が通じたのが大正11年です。それ以前のこの写真には江戸時代に遡る赤沢の生活風景を示す貴重な情報が詰まっています。
手前の物置が寸詰まりになって少し移動してるぐらいで背景の家並みの配置や林も現在と変わっていませんね。では百年前の風景とナニが変わったんでしょうか?
笹板屋根
手前の物置と左側主屋の屋根は「笹板葺き=木端葺き」といって栗材を幅10cm長さ36cm厚さ4-5mm程に割り取った板を4段重ねに葺き、表面に見えているのは先端の4分の1だけです。1u当り100枚余の板が必要となるので小さな物置でも数千枚の割板が使われています。
釘のこと
板は一枚づつ釘止めしていますが、洋釘が普及する明治中期以前には和釘(巻頭釘)が使われていました。鉄そのものが貴重だった江戸時代には竹釘などが使われたのではないかと思います。
赤沢民家の多くはトタン屋根を解体すると下から当時のまま笹板屋根が出てきます。和釘と洋釘が混在し、洋釘にも形や鉄の品質の違いがあって、幾度も修理を繰り返した様子が伺えるのです。さすがに竹釘は出てきません。もっとも赤沢民家の屋根が笹板葺きになったのはそう古くはなく、それ以前は草葺(茅や麦藁)だったのです。

草葺きから板葺きへの謎へとつづく

さていかなる展開が待ち受けてるのか・・・・・・・請うご期待
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2008年01月09日

棟札って何?

大下棟札-1.JPG 最近の住宅建設では地鎮祭とか上棟式などの建築儀礼が形式化し省略されてしまったので知ることも出来ませんし、目にする機会がなくなってしまいましたが、棟札(むなふだ)という言葉を聞いたことあるでしょうか?

ビル建築などの場合は玄関脇に磨石製の「定礎」がありますが、これを棟札の末裔と言うのかもしれません。つまり竣工年月日・施主名・施工者名や祈願文を記した銘板のことです。

伝統的な木造建築では杉桧欅などの板に墨書し、寺社の棟札は縦細長の形で墨書面を保護板で覆うとか木箱に収める処置がされていることが多く、古民家の場合は上記のように煤で文字が読めない状態が多いです。
木造建物を新築する場合、軸組小屋組の骨格が組みあがった段階を工事の大きな節目として、上棟式が行なわれます。その際に棟木中央部辺りか棟束側面にこの銘板を釘で固定します。
その後屋根を架け壁や天井を張り建物が完成してしまうと、日常はまったく人の目に触れることなく建物が存続する限り銘板はそこに在り続け、大修理の際にも新たに銘板が追加されることがあり、「棟札」と呼ばれる由縁でしょうか。

大下棟札-2.JPG赤沢の幾軒かの民家に棟札が残っていますので、「大下主屋」棟札を紹介し解説しましょう。
表書き
右側  天保十一庚子年四月吉日
中央 南妙法蓮華経 王舎城守  日慶(花押)
左側 ○・・・・・授与之赤澤村望月與左衛門者也

裏書き
 高祖御詠
志茂波志羅 氷之多流幾
雪之計多 雨之宇津波利
露之不幾久佐
御棟札  宗孝院 出之者也

裏書は祈願文で上棟式の際、大工棟梁が棟上でモニョモニョと唱える言葉であったりします。
「霜柱 氷の垂木 雪の桁 雨のうつはり 露の葺き草」
うつはり=梁のことで、建築の主要部材を水になぞらえ耐火建物であるという祈願歌です。

この棟札は日蓮宗独特の髭題目曼荼羅本尊を兼ねた様式で他所では見られないこの地域独特の特徴があります。
これを書いたのは旦那寺の赤澤妙福寺住職 宗孝院日慶というお坊さんでした。
 村の記録によれば天保9(1838)年12月14日未明(赤沢)下村17戸類焼。とあり、この原因によって2年後の天保11年新築に至ったと想像できます。

参考までに、日本で最古の棟札といわれるのは中尊寺に蔵する1122年のモノで文字不明瞭で、次が1124年の中尊寺金色堂。民家では1584(天正12)年が最も古いらしいです。建物の建築年代を特定する根拠とし、当時の様子を知る貴重な手がかりになるため古民家の調査などでも最重要資料です。


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2008年01月08日

集落の風景

08年スタートはやはり赤沢宿の紹介から始めましょう。
冬の赤沢は森の木々が葉を落とし、およそこのスケッチのような見晴らしの良い広々とした風景が広がっています。
赤沢前景ペン画-a2-2.JPG

 ・・・・・・・・・・・っつうか実のところパンフレット製作時の下絵なんですコレ。暮のお掃除で奥の方から10年ぶりに出てきたもんですからつい手抜きを(あっ書かなきゃダレもわかんないか!)。
平成8年38戸の家と妙福寺.麻利支天社.公民館が描かれており、そのうち営業する旅館が6軒、空家は10軒でした。それから11年を経て、現在旅館は江戸屋1軒だけになってしまいました。空家は2軒増えて12件。それでも集落の風景はあまり変わるところがありません。

 大きな変化は、@空家を改修して開業したそば処「武蔵屋」とA赤沢住民一人残らず皆が11歳年を取ったということでしょうか。

年を取ることは必ずしもマイナスや悪いことでもなくて、その年齢になってみて初めてわかるって事があるんですね、大人になっていくっていうのかな、ボケ方にも技を駆使する醍醐味ってのがあるんじゃないかって思うんです。

 とりあえず自分のことはさておき、良かれと思えばズンズン進み、いまさら直る訳で無し人の振り見て我が振り直さず、余計なお世話の押し売りなお結構。今年も元気で生きましょう。
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2007年05月06日

修景の前後

si?5.10.jpg

s95.4.18k.jpg桜の花の次は桃の季節ですね。
中央道から見る一ノ宮のピンクの花絨毯は日本一の桃に産地にふさわしい景色です。ならば、赤沢の桃花は「利休が秀吉のために草庵に活けた一輪の朝顔」に匹敵するやも知れません・・・・・・・・・・・・・一寸無理があり過ぎか。

今年の赤沢の桜は大半がつぼみのうちに食べられてしまい、開花時は情けない有様でした。誰が食べたかって?  ウソだそうです。いやホントに、ウソのような・・・・・・・・・ではなくホントの話。
昨秋は山の成り物が少なかったようで、猪や鹿やら猿が集落内を荒らす様子は、まるで「七人の侍」に出てくる野盗の群れです。
赤沢にも侍が3人居るんですがね、皆仕事で忙しい人ばかりでいわゆる日曜侍なわけです。獣連中も学習してて、日曜は休日にすべえってどっかへ出かけちゃうんですねぇ。

何の話だったっけ・・・・・そうそう桜のつぼみを食べたヤツね、ヤロメの詳しいことは知んねけど「ウソ」っていう野鳥なんだそうです。近在の三里地区にある「野鳥公園」では猿がつぼみを食べてる姿が目撃されてるようなので、獣ばかりか野鳥の餌になる実も極端に少なかったためらしいのです。

追伸:
誰が名付けたか?赤沢宿の銀座通り(言わないって)、石畳の坂道をつづれ折に下りていくと黒松の濃い緑と鮮やかな桃の花に出会えます。
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2007年04月25日

古民家の間取り

赤沢の民家(伝統的な住まい).jpg

と・り・あ・え・ず・大正時代頃の一般民家の様子を復元したスケッチです。
(注:医者が患者に「とりあえず血液検査をしましょう」とりあえず検査とは何事か?そんな曖昧な言葉がやたら横行してるのは由々しきことである。と、ラジオで誰かがゆってました。けど、まっとりあえず)

今回も 例によって・・・・・・・・・・・・・つづく
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2007年04月24日

民家の古い図面から

みなさまの信頼を取り戻すべく、昨日に続いて記事を立ち上げました。エライもんでありますね。
 さて本日のお題は、明治初年の古民家を取り上げます。
間取り図-1.JPG

この当時赤沢には9軒の旅籠がありましたが、その内の1軒望月十郎兵衛宅をご紹介し・・・・え〜と、文字がわかりにくいので現代語に翻訳した下図をご覧ください。
間取り図-2.jpg

建物の左側(北→西)に往還(七面参道)が通っています。
一般の民家の間取りと大きな違いが無いことが赤沢の旅籠の特徴とも言えますね。旅籠らしい点は接客用に道路に面する座敷回りにL型の縁が付いている事、客は縁に腰を掛けてワラジを脱ぎ足をすすいでから座敷に上がるという寸法です。

北隅に「せついん」とあるのは雪隠=便所のことで内便所は客専用であり、家人は南側の外便所しか使いません。同様に南側の「ゆどの」も客用の湯殿です。湯殿は湯に浸かる設備ではなく、手桶の湯水で体を拭う程度なので板壁にスノコ板床の狭い室でした。

客間は3室だけで、「へ屋」とあるのは布団部屋かと思われますが大勢の来客時には客室になります。
家の玄関は湯殿の右手に六尺の大戸(引戸)入り口があり、
「ろじ」=路地土間の奥に続く「居間」は板敷きです。普通には「イドコ(居所の転化?)」と言い、中央に囲炉裏(ヒジロ)が切ってあり日常の家族室というかLDK+応接+寝室でもあるのです。イドコの奥の「ものおき」とあるのは、今で言うところの物置=納戸ではなく納戸=主人寝室であったと思われます。

「仏壇と神棚」は玄関から見て正面の居間奥「ものおき」との壁境に置かれ、外部から入ってくる諸々の役災から家人を守護する位置にある。(来客だってコレラなんかの役災を持ち込むしね、神明に頼るしかない当時はたいへんだった、いやホントに。)

あああああ もうこんな時間だ 寝なきゃ

4/25お晩です。つづきです。
「蔵」は土蔵ですね、規模は壱丈五尺×壱丈=15尺×10尺、4.545m×3.030m=13.77u=4.17坪。
現在赤沢区内に現存する土蔵が4棟ありますが、当蔵はすでに有りません。当蔵のように主屋建物に付属した小規模土蔵は、早川町内各集落にはたくさん残っています。
これらを参考に構造を類推すると、置き屋根・平入り(入口が棟と平行の壁側に付く)形式、内部は二層で柱間は2.5尺OR5.0尺間、と推定できます。
 平場の農村地帯に見かける土蔵は二間×三間というように6尺を基本に柱間3尺で構成した土蔵が多いように思うのですが、これらは明治期に養蚕などで潤った時代に、無尽講を利用した規格サイズの土蔵が短期間に大量に建てられたためではないだろうか、とひそかに想像しているのですが、どうでしょうね?

 また、当土蔵のように5尺を基本寸法とした蔵も少なくありません。赤沢の最も古いと思われる1棟がそれです。
 赤沢の主屋建物は側柱(ガワバシラ:上屋周りを支える柱)を6尺間に配した古式を残しています。これに対して付属屋の物置や蔵には5尺間を付与するという建築上の慣行が江戸時代の○△頃にあったのでは中廊下と。
赤沢だけでなく各地に散見できるので、想像の域を出ませんがずーっと気になっている事のひとつです。
 どなたかご意見を聞かせてください。

蔵の戸前の「土間」は主屋の切妻壁際に下屋仕立て(オダレ)のオカッテ(厨房)の場所ですね。文字修正「なか志」と読めますから「流し場」がある所です。

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2007年03月12日

年輪239本の栂(ツガ)柱

久しぶりに建築の話です。
栂柱.jpg

「市下」主屋の解体修理に際し、座敷廻りに使われていた建築当初材と思われる柱の断面写真は、1/3ほど欠損してますが太さは145mm角(4寸8分)、石場建てを布石基礎土台敷きに改修した折に底部を根継補修した時の端材です。
 この部材からどんなことが読み取れるでしょうか。
樹種は常緑針葉樹の栂(ツガ)、芯持ち材で過去に羽蟻か蜂などの虫害を受けています。ルーペを覗きながら年輪を数えたところ、なんと13センチの間に239本ありました。栂は成長が遅いといわれていますが、250〜260年を経てわずか5寸柱1本分しか生育できなかった自然条件とはいったいどんな環境だったのだろう?
民家の古材は木肌が黒ずんで樹種の判別が難しいのですが木口断面を見るとわかり易いのです。栂の木肌は赤松と見間違えるほど良く似ていますが、冬目はより黒く春目が淡桃褐色なのでコントラストのはっきりした木肌に特徴があります。

 そりゃそうと「栂の立木って見たこと無いな〜」という訳で、恥ずかしながら早川町森林組合の長谷川さんに教えを請いに伺いました。で、コレが樹皮の写真、赤松に良く似てます。葉っぱは樅より短く、槇にも似ているような?
tuga-1.JPG  tuga-2.JPG
長谷川氏は「昭和30年代までは早川渓谷の県有林から相当量の大木を伐り出したが今は出ないねえ、標高千〜二千メートル辺には伐り出せないで残った大栂林がある」と言います。
 国産栂材は硬質で粘りがあり建築用材に適しているが、若齢期の栂は木目が螺旋状に育つために捻れや割れが生じ易いクセがあるので、小屋梁など目に触れない箇所の構造材としての用途が主です。しかも生育が遅いこともあり人工造林もされません。その一方で柱や敷居、鴨居、長押、縁甲板などの内法造作材に用いられる栂材というものがあります。木理が通直緻密で尚且つ12尺を超える柾目長尺材は、直径1メートルを超えるような数百年を経た天然木でなければ得られないのだそうです。 

今ではツガと言えば北米産のツガのことで、住宅の用材として安く大量に使われています。しかし、国産の栂は造林されてませんので天然木ですが、全く別物で銘木の扱いです。関東以北ではあまり馴染がなく知られていませんが、関西以西では「トガ(ツガ)普請」は数奇屋造りなど高級普請の代名詞として知られています。 先日伊豆の伊東・熱海で見学した昭和初期の別荘建築は、いずれもトガ普請の数奇屋建築でした。
 現在では、このような栂材は見ることさえできなくなっていますが、戦前には天城山奥や大井川上流の川根辺りから盛んに伐り出されて東京木場に集められたといいます。南アルプスの尾根の反対側・早川、雨畑、春木渓谷からも栂、テンカラ(天然カラマツ)、トウヒ、桧などの銘木を産出していたのです。

赤沢集落の直下を流れる春木川の源流域一帯は赤沢の持ち山ですが、最奥部に県有林があり、此処は江戸時代に幕府の直轄林「御林」でした。 宝暦11(1761)年「甲州巨摩郡赤沢村御林請改帳」によれば、赤沢山之内棚上山、御林壱所 南北参拾町、東西弐拾町 此反別知れず。桧木千本、杉五十本、樅千本、栂八百本、槻三十本、但し長三間位より五六間位まで目通り三四尺廻りより五六尺廻りまで。その他曲がり木筋木として桜、水楢、ブナ、小木が上げられ、都合六千五百本の木数が記されています。 他年代の村明細帳でも同じ木数を書いているので、これらの数字は正確ではないにせよ、桧、樅、栂が全体の4割を占めるほど大量に自生していたことがわかります。市下主屋の使われていた栂柱は春木渓谷の奥山高地の原生林から産出したものだろうと想像できます。
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2006年12月15日

景観を修景すると

江戸屋全景.jpg

町並みの写真を撮ろうとすると、どうやっても電信柱と電線が写るんだわね。
コレが邪魔っ!
電力線・電話線・2系統のTV共視聴線、これらケーブルが蜘蛛の巣状態で集落を覆っているもんだから、写真家をして「これは撮らせないために意図的に仕組まれたものに違いない」と嘆かせている。
  
ウーン  確かにね  そうかも知れないなー。
赤沢にだって「肖像権」ってものがあるべし、そう簡単に撮られたくは無いわね。
かといって、村の許可を得ていざ撮ろうとしても・・・・・撮れんか。

するってーとコトは電力会社とNTTと村のTV組合がテンデンバラバラに柱を建て線を引いたってことに起因するな。
あっち痛いこっち痛いと言っちゃ膏薬をベタベタ貼り回した結果だわね。
見苦しいことはなはだしいけど、これも村の歴史と大切に残していけば、将来日本中の電柱電線が消える日が来た時には重要な近代化遺産になるだろう・・・・・・・・かねぇ?

ものは試しに電線・電柱を外して見ようってことで。

江戸屋修景-01.jpg

結構良いんでないの! やはり伝統的な風景はモノクロが似合う。
目障りなモノが消えるだけで視界が広がり背景との調和が際立つようです。

↓ついでに明治39年の古写真を
edoyaM39.jpg
明治10年築の建物ですが現在とほとんど変わっていません、変わったのは上屋・下屋根が笹板(栗ヘギ板)葺き⇒トタン葺きに変わったぐらい。ただ当時の笹板葺きの手法では入母屋屋根の隅棟の雨仕舞いが造れなかった為でしょうか擬似入母屋の化粧屋根になっています。切妻⇒入母屋へ変化していく過程ですね。なお棟は杉皮葺きを算木で押さえ上に玉石を載せていた様子がわかります。
 この写真は大風に屋根板を剥されるなど被害を受けて大修理を行い、妻側二階腰壁を増築した工事完成の記念写真と思われ、宿泊客も座敷箒を三味線代わり頭に手ぬぐいを載せておどけた姿で写っています。ガラス乾板時代の貴重な記録です。

↓さらについでに
kura01.jpg
寛政4年(1792)建築の土蔵は、記録が残る建物としては赤沢で最も古い建物です。天保8(1837)年の村大火に会いながら焼け残り、この折に土壁など大修理をしたようです。下って大正11(1922)年にトタン張の補修を行い、平成8(1996)年には半解体保存修理を施し大正11年当時の姿に戻しました。国産のトタン板は、官営八幡製鉄所が1906年頃生産開始したのが始まりといいますから、当土蔵のトタン張や「江戸屋旅館」の書き文字などは共に日本の近代産業の歩みを象徴しているように思います。当時トタン板は身延の山を越えて人の背に背負われて運ばれてきました。
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2006年12月13日

さざんかの宿

sazanka1003.JPG
 

sazanka1005.JPG

むかしむかし♪曇りガラスを手でふいて〜♪なんち曲があったとさ。

さざんか休 受けもせずひとり 留守の宿   沈念ふらふら

野に色彩が乏しくなったこの時期に、ひとりサザンカの薄紅色の花に染めてさびしさをなごませてくれるのである。花びらのひとひらが音も無くひらりひらりと舞い降りる様などもいとおかし。
posted by ヒコベエ at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 町並みと建築 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月08日

パンフ紹介

panf-0.JPG
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ちと古いパンフレット(10年前)ですが、変更は1ヶ所「旅館四軒が営業⇒一軒(H18年現在)」だけなので、一応賞味期限内・・・・・・・ですよね?
posted by ヒコベエ at 01:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 町並みと建築 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月05日

赤沢宿へごあんな〜い

DSCN0905-00.jpg
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へえいらっしゃいまし お客様お一人で? へえへえ よございますとも。
お客さまあ赤沢は初めてでございますか? 
そおですか そんなご遠方から車で よくまあ道に迷わずに 
ああやっぱりそうでございましたか 入口の看板を 見逃しておいでに 
それはそれはお気の毒さまでございました。
この山道を登っていった先に ホントに村があるんだろうかってね。
みなさん口に出してはおっしゃいませんが わかるんでございますよ
赤沢に辿り着いた時のみなさんのお顔の表情を見ればね。 ええ
 いえね 私どもにとっちゃ 生まれてこの方 毎日見てるあたり前の風景なんですけども 此処にお出でのお客さま方はみなさんビックリなさるんですよ。
ワァーとかウォーとか すっばらしい景色ですね とかおっしゃってくれます。
 お客様お疲れでしょう 気がつきませんで申し訳ございません 
ささ どーぞどーぞ上って休んでくださいな。

村のことを調べにお出でなすったんですか? ハァ すると税務署の方で?
違う? 昔の話  ですか。 
それじゃあ村の年寄りに聞いたほうが    えっ あたしに聞きたいと?
こう見えてもあたしまーだ70に届きませんので  赤沢青年同志会をやっております。
充分にご年配だと そうおっしゃいますか 
そうですかねえ 日頃気をつけておったんですが ハァ 気が付きませんでした。

ご案内
県道から山腹の林の中をうねうねと2kmほど登りきると、前方の視界が一気に開けた処が赤沢集落です。右手に春木川渓谷対岸に壁のようにそそり立つ七面山を望み、左手東側は集落の登り斜面につらなる山なみが身延本山奥の院へと続いています。

 集落は20〜25度の傾斜地に33戸の民家と2社寺が雛壇状に建ち並び、集落を縦貫するように石畳の歩道(旧身延往還)が整備されています。

 集落中央部に水神宮と道祖神の石碑を祀る湧水源があります。この水源は村の始の基を成し、有史以来枯れることがなく(見てきた訳ではないけれど)現在でも下流の10軒ほどが飲料水に使用しています。
 ソバにそば処「武蔵屋」がありますので(良い水=旨い蕎麦)休憩にお立ち寄りください。

 駐車場:3ヶ所ありますが、妙福寺裏や公民館側に車を止めて、集落の見学には石畳道を上から下に歩かれるのが良いでしょう。とは言っても登り下りは必須です。上から下までの標高差100m以上ありますので、赤沢宿を見ながら足腰を鍛えて健康的な老後に備えましょう。

 赤沢資料館(無料):大阪屋旧旅館の屋敷奥に木造2階建ての小さな資料館があります。小さくとも中身がウンと詰まった展示は一見の価値があります。

集落内の宿泊施設:保存地区に選定された平成5年には6軒の旅館が営業していたのですが、高齢化など休業廃業が相次ぎ、現在ただ1軒のみになってしまいました。

江戸屋旅館 一泊二食付¥7000より 要予約 0556-45-2162 
鎌倉時代以来の旧家で、江戸時代から続く旅館は歴史と伝説に彩られています。明治10年築の建物は江戸時代の旅籠の姿を残し、食事も昔ながらの朱塗り猫足膳と桧のお櫃が出てきます。
 
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2006年12月01日

本日はお日柄も良く

赤澤宿絵はがき-1.JPG

みなさんこんにちわ

 平成18年12月1日(金)甲子・友引の本日、お日柄もよろしく晴天に恵まれた赤沢宿は、まことに「ブログの始まり」にふさわしいおだやかな日和であります。

早川町・赤沢集落は平成5年7月に、全国で34番目の国重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
このブログでは町並みや建物だけでなく、人々の生活や集落を取巻く自然環境、動植物など様々なシーンをタテヨコナナメから見た最古〜最新の情報を紹介していきたいと考えています。
 皆みなさま、今後とも当ブログとよろしくお付き合いくださいませ。

 重い腰を“よいしょっと”上げて
 急な坂道“あらよいしょっと”越えて
 辿り着いたる赤沢宿で“良いショット”

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