2007年04月24日

民家の古い図面から

みなさまの信頼を取り戻すべく、昨日に続いて記事を立ち上げました。エライもんでありますね。
 さて本日のお題は、明治初年の古民家を取り上げます。
間取り図-1.JPG

この当時赤沢には9軒の旅籠がありましたが、その内の1軒望月十郎兵衛宅をご紹介し・・・・え〜と、文字がわかりにくいので現代語に翻訳した下図をご覧ください。
間取り図-2.jpg

建物の左側(北→西)に往還(七面参道)が通っています。
一般の民家の間取りと大きな違いが無いことが赤沢の旅籠の特徴とも言えますね。旅籠らしい点は接客用に道路に面する座敷回りにL型の縁が付いている事、客は縁に腰を掛けてワラジを脱ぎ足をすすいでから座敷に上がるという寸法です。

北隅に「せついん」とあるのは雪隠=便所のことで内便所は客専用であり、家人は南側の外便所しか使いません。同様に南側の「ゆどの」も客用の湯殿です。湯殿は湯に浸かる設備ではなく、手桶の湯水で体を拭う程度なので板壁にスノコ板床の狭い室でした。

客間は3室だけで、「へ屋」とあるのは布団部屋かと思われますが大勢の来客時には客室になります。
家の玄関は湯殿の右手に六尺の大戸(引戸)入り口があり、
「ろじ」=路地土間の奥に続く「居間」は板敷きです。普通には「イドコ(居所の転化?)」と言い、中央に囲炉裏(ヒジロ)が切ってあり日常の家族室というかLDK+応接+寝室でもあるのです。イドコの奥の「ものおき」とあるのは、今で言うところの物置=納戸ではなく納戸=主人寝室であったと思われます。

「仏壇と神棚」は玄関から見て正面の居間奥「ものおき」との壁境に置かれ、外部から入ってくる諸々の役災から家人を守護する位置にある。(来客だってコレラなんかの役災を持ち込むしね、神明に頼るしかない当時はたいへんだった、いやホントに。)

あああああ もうこんな時間だ 寝なきゃ

4/25お晩です。つづきです。
「蔵」は土蔵ですね、規模は壱丈五尺×壱丈=15尺×10尺、4.545m×3.030m=13.77u=4.17坪。
現在赤沢区内に現存する土蔵が4棟ありますが、当蔵はすでに有りません。当蔵のように主屋建物に付属した小規模土蔵は、早川町内各集落にはたくさん残っています。
これらを参考に構造を類推すると、置き屋根・平入り(入口が棟と平行の壁側に付く)形式、内部は二層で柱間は2.5尺OR5.0尺間、と推定できます。
 平場の農村地帯に見かける土蔵は二間×三間というように6尺を基本に柱間3尺で構成した土蔵が多いように思うのですが、これらは明治期に養蚕などで潤った時代に、無尽講を利用した規格サイズの土蔵が短期間に大量に建てられたためではないだろうか、とひそかに想像しているのですが、どうでしょうね?

 また、当土蔵のように5尺を基本寸法とした蔵も少なくありません。赤沢の最も古いと思われる1棟がそれです。
 赤沢の主屋建物は側柱(ガワバシラ:上屋周りを支える柱)を6尺間に配した古式を残しています。これに対して付属屋の物置や蔵には5尺間を付与するという建築上の慣行が江戸時代の○△頃にあったのでは中廊下と。
赤沢だけでなく各地に散見できるので、想像の域を出ませんがずーっと気になっている事のひとつです。
 どなたかご意見を聞かせてください。

蔵の戸前の「土間」は主屋の切妻壁際に下屋仕立て(オダレ)のオカッテ(厨房)の場所ですね。文字修正「なか志」と読めますから「流し場」がある所です。

posted by ヒコベエ at 02:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 町並みと建築 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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