2007年03月27日

これがウワサのチャリンポリン

これがウワサのチャリンポリン、生姜入ってます。
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今、身延山久遠寺のしだれ桜が見頃だそうですが、見ずに帰ってきてしまい惜しいことしました。
赤沢妙福寺のしだれ桜はこれからですが、薄墨桜のような上品で淡い色合いがgoodです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というか、やっぱり食べ物でしょこの季節は。
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posted by ヒコベエ at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 食べ物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月20日

続続続。便所がおもしろい

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 赤沢民家の外便所は「二戸一宇」と言って、一つ屋根の下に2口の個室という形が一般的です。
戸は踏み込み入口に一枚の板扉が付くだけで、内部は天井も無く小屋裏吹き抜けの一室空間です。
踏み込み部分や外板壁は鍬や鎌など畑作用の農具掛けに使われていて物置を兼ねていました。
傾斜地を等高線沿いに拓いた細長い屋敷では、庭先に物置を建てるスペースが無いための工夫だったと思います。

 なぜ2口の便所なのかについては謎です。
安直に言うと、1口では建物としてのバランス・剛性に欠けるから・・・・・か??。
江戸の長屋の便所を「惣後架(そうこうか)」と言いますが、これに似た造りと考えられますので、あるいは江戸の信者講中が伝えたのかしら?・・・・・・・・
長屋住まいの八つぁん熊さん等職人層が多かったし。

戸口脇の壁際に小便所が設けてあり、大便と小便は便槽(便壺)で一緒になります。
これに台所流し下の(タメンジリ)に溜め置いた排水を混ぜて柔らかくした便液を肥桶に汲み取り畑に運ぶわけです。
この下肥は雑草や枯葉の堆肥に混ぜて発酵させたのが元肥となり、畑土に鋤き込んで使います。

しかしここで疑問が。
江戸時代とまで遡らなくとも昭和30年代頃までの古民家(特に畑作主業の地帯)には、主屋入口脇の軒下に桶を埋けた小便所があったのを知る人は多いのではないでしょうか。このように小便を分別した大きな理由は、即効性の液肥(尿素肥料)として蔬菜類や麦の追肥に使うためでした。
近代にはいると硫安(窒素肥料)に変わりましたが、今は栽培が禁止されている麻は生長が速い植物なので尿素の追肥が欠かせなかったのだそうです。

ところがです、江戸後期の民家を多く残す赤沢集落にあって、大小便を分別利用していた資料あるいは建築の痕跡が出てきません。これが便所にまつわるもう一つの謎です。

ところで、赤沢集落を取り囲む山々の全てが山林に覆われている現在からは想像し難いのですが、終戦直後米軍が撮った空撮写真を見ると、当時はほとんどの面積が焼畑や山畑(切替畑)だったことがわかります。主たる畑とは幾時間もかけて通う急峻な山畑であった、そこに下肥を担ぎ上げたとは考え難いです。
集落近辺にあるほんのわずかな常畑ならば、大小便を分別してまで手間をかける必然性が無かったのかもしれない。
というのが今考えた理由なんですが、
ここまで我慢強く読んでくださったみなさんには、ご意見を400字以内にまとめてコメント提出することを求めます(2単位)。
posted by ヒコベエ at 00:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 便 所 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月16日

そば屋のメニュー表(春号)出来ました

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赤沢そば屋の回し者からのお知らせです。
そんなに品揃えがある訳じゃ無いんですけどね、メニュー表を作りました。なにしろ春爛漫ですから、昔から言うでしょ「目に青葉山ホトトギス武蔵屋の蕎麦」って。
 あとね、自慢じゃないでが、「季節の小鉢いろいろ」という隠れた逸品があるんです。小鉢の値段が付いてたのかな〜?、その時々で何が出てくるか判らないんですがね、んまいんです。




posted by ヒコベエ at 11:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 美味しいそば処「武蔵屋」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月14日

87年前の新聞から

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古い木箱の敷き紙に使われていた古新聞紙を何気なく覗いて見たら、な、なんと大正9年6月12日(土)付けサンニチ新聞ではありませんか。よくもまあ残っていたものです。しかも大正5年11月15日改正??の甲武鉄道(JR中央線)「汽車発着時間表」が載ってますがな。4年間もダイヤ改正無し?これ見ると一日当たり、上り下り6本ずつで、始発が「飯田町」ってどこだろ?
 調べました。現在の飯田橋と水道橋の中間辺り、今JR貨物の建物があるる処が昔の「飯田町駅」跡地なんだそうです。
 この新聞紙の時間表は途中で破れていたので正確ではありませんが、当時飯田町〜甲府間を5時間半ぐらいかかったようです。
この頃身延線はまだ通じていなかったし、山間部の赤沢地区では新聞は郵便で配送されていました。


posted by ヒコベエ at 03:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月12日

年輪239本の栂(ツガ)柱

久しぶりに建築の話です。
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「市下」主屋の解体修理に際し、座敷廻りに使われていた建築当初材と思われる柱の断面写真は、1/3ほど欠損してますが太さは145mm角(4寸8分)、石場建てを布石基礎土台敷きに改修した折に底部を根継補修した時の端材です。
 この部材からどんなことが読み取れるでしょうか。
樹種は常緑針葉樹の栂(ツガ)、芯持ち材で過去に羽蟻か蜂などの虫害を受けています。ルーペを覗きながら年輪を数えたところ、なんと13センチの間に239本ありました。栂は成長が遅いといわれていますが、250〜260年を経てわずか5寸柱1本分しか生育できなかった自然条件とはいったいどんな環境だったのだろう?
民家の古材は木肌が黒ずんで樹種の判別が難しいのですが木口断面を見るとわかり易いのです。栂の木肌は赤松と見間違えるほど良く似ていますが、冬目はより黒く春目が淡桃褐色なのでコントラストのはっきりした木肌に特徴があります。

 そりゃそうと「栂の立木って見たこと無いな〜」という訳で、恥ずかしながら早川町森林組合の長谷川さんに教えを請いに伺いました。で、コレが樹皮の写真、赤松に良く似てます。葉っぱは樅より短く、槇にも似ているような?
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長谷川氏は「昭和30年代までは早川渓谷の県有林から相当量の大木を伐り出したが今は出ないねえ、標高千〜二千メートル辺には伐り出せないで残った大栂林がある」と言います。
 国産栂材は硬質で粘りがあり建築用材に適しているが、若齢期の栂は木目が螺旋状に育つために捻れや割れが生じ易いクセがあるので、小屋梁など目に触れない箇所の構造材としての用途が主です。しかも生育が遅いこともあり人工造林もされません。その一方で柱や敷居、鴨居、長押、縁甲板などの内法造作材に用いられる栂材というものがあります。木理が通直緻密で尚且つ12尺を超える柾目長尺材は、直径1メートルを超えるような数百年を経た天然木でなければ得られないのだそうです。 

今ではツガと言えば北米産のツガのことで、住宅の用材として安く大量に使われています。しかし、国産の栂は造林されてませんので天然木ですが、全く別物で銘木の扱いです。関東以北ではあまり馴染がなく知られていませんが、関西以西では「トガ(ツガ)普請」は数奇屋造りなど高級普請の代名詞として知られています。 先日伊豆の伊東・熱海で見学した昭和初期の別荘建築は、いずれもトガ普請の数奇屋建築でした。
 現在では、このような栂材は見ることさえできなくなっていますが、戦前には天城山奥や大井川上流の川根辺りから盛んに伐り出されて東京木場に集められたといいます。南アルプスの尾根の反対側・早川、雨畑、春木渓谷からも栂、テンカラ(天然カラマツ)、トウヒ、桧などの銘木を産出していたのです。

赤沢集落の直下を流れる春木川の源流域一帯は赤沢の持ち山ですが、最奥部に県有林があり、此処は江戸時代に幕府の直轄林「御林」でした。 宝暦11(1761)年「甲州巨摩郡赤沢村御林請改帳」によれば、赤沢山之内棚上山、御林壱所 南北参拾町、東西弐拾町 此反別知れず。桧木千本、杉五十本、樅千本、栂八百本、槻三十本、但し長三間位より五六間位まで目通り三四尺廻りより五六尺廻りまで。その他曲がり木筋木として桜、水楢、ブナ、小木が上げられ、都合六千五百本の木数が記されています。 他年代の村明細帳でも同じ木数を書いているので、これらの数字は正確ではないにせよ、桧、樅、栂が全体の4割を占めるほど大量に自生していたことがわかります。市下主屋の使われていた栂柱は春木渓谷の奥山高地の原生林から産出したものだろうと想像できます。
posted by ヒコベエ at 11:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 町並みと建築 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月09日

見てから食べる?

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1月末に開花した福寿草群落は今や野菜畑のように青々と繁っていますが、開花が遅れた日陰の傾斜地では節分草群落に混じって福寿草が同時に咲いている珍しい光景を見ることが出来ます。
 福寿草・節分草の次には「二輪草」が咲き始めますよ。

まず花を見てから蕎麦屋に直行?、あるいは蕎麦で腹ごしらえしてからゆっくりと花を見てあるく? イヤイヤ家並み見学が先でしょ?    おおっとぉ 桜がもうすぐ咲くらぁ。
みなさん!!どれから始めますか?

赤沢の春はこれから新緑を迎えます。・・・・新緑といっタラのの芽・コシアブラ・山椒にバラッパ・胡桃・朴葉にヨモギにコゴミ・ワラビにゼンマイ・蕗味噌・木の芽和え・・・・・・・・・
選り取り緑の食い放題・・・・・・・・い〜い季節です。
posted by ヒコベエ at 02:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 野生動植物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月01日

赤沢の歴史が詰まっています。

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場所は「2006.12/5赤沢宿へごあんない」パンフをクリック参照してください。 
 なんとも無愛想な資料館ですが中身は濃いんです。入口は正面右側の引き違い板戸です。元は大阪屋旅館の番頭さんの住まいだったようで、建築当初は平屋建て茅葺き屋根の建物であったのを明治23(1890)年に大改修を行い現在の総二階に変えたことが判りました。平成3年に半倒壊状態だった建物を「よいしょっと」起して、再び保存修理を施し資料館として公開民家になりました。見学料金は・・・・今のところ無料です。  が、寸志は断ってはおりませんハイ。

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おばあちゃんがひとり留守番をしていますので、見学の際には一声かけてください。ただし耳が遠〜いので返事は期待できません。一階展示室は杣・木挽き道具など生産生活用具の展示です。
床下土間に大きな穴が掘られていますが、備荒作物のさつま芋をモミ殻と共に保温貯蔵したイモグラがありますから、足元にご注意を!

DSCN0990-4.JPG  DSCN0997-5.JPG  二階展示室へは急なはしご段を登り、床は畳敷きです。旅館の接客用具や調度品を所狭しと展示しています。
展示品の一つひとつが、故人があるいは家族がかつて所有していた遺品です、大切にしてくださいね。
posted by ヒコベエ at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 赤沢資料館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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