

赤沢民家の外便所は「二戸一宇」と言って、一つ屋根の下に2口の個室という形が一般的です。
戸は踏み込み入口に一枚の板扉が付くだけで、内部は天井も無く小屋裏吹き抜けの一室空間です。
踏み込み部分や外板壁は鍬や鎌など畑作用の農具掛けに使われていて物置を兼ねていました。
傾斜地を等高線沿いに拓いた細長い屋敷では、庭先に物置を建てるスペースが無いための工夫だったと思います。
なぜ2口の便所なのかについては謎です。
安直に言うと、1口では建物としてのバランス・剛性に欠けるから・・・・・か??。
江戸の長屋の便所を「惣後架(そうこうか)」と言いますが、これに似た造りと考えられますので、あるいは江戸の信者講中が伝えたのかしら?・・・・・・・・
長屋住まいの八つぁん熊さん等職人層が多かったし。
戸口脇の壁際に小便所が設けてあり、大便と小便は便槽(便壺)で一緒になります。
これに台所流し下の(タメンジリ)に溜め置いた排水を混ぜて柔らかくした便液を肥桶に汲み取り畑に運ぶわけです。
この下肥は雑草や枯葉の堆肥に混ぜて発酵させたのが元肥となり、畑土に鋤き込んで使います。
しかしここで疑問が。
江戸時代とまで遡らなくとも昭和30年代頃までの古民家(特に畑作主業の地帯)には、主屋入口脇の軒下に桶を埋けた小便所があったのを知る人は多いのではないでしょうか。このように小便を分別した大きな理由は、即効性の液肥(尿素肥料)として蔬菜類や麦の追肥に使うためでした。
近代にはいると硫安(窒素肥料)に変わりましたが、今は栽培が禁止されている麻は生長が速い植物なので尿素の追肥が欠かせなかったのだそうです。
ところがです、江戸後期の民家を多く残す赤沢集落にあって、大小便を分別利用していた資料あるいは建築の痕跡が出てきません。これが便所にまつわるもう一つの謎です。
ところで、赤沢集落を取り囲む山々の全てが山林に覆われている現在からは想像し難いのですが、終戦直後米軍が撮った空撮写真を見ると、当時はほとんどの面積が焼畑や山畑(切替畑)だったことがわかります。主たる畑とは幾時間もかけて通う急峻な山畑であった、そこに下肥を担ぎ上げたとは考え難いです。
集落近辺にあるほんのわずかな常畑ならば、大小便を分別してまで手間をかける必然性が無かったのかもしれない。
というのが今考えた理由なんですが、
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